歴史の裏側 日露戦争

 日露戦争は1904年に開戦し、翌年9月のポーツマス条約調印により終結した戦争である。また、ロシアが誇る最強のバルチック艦隊を日本海海戦で撃破した日本が勝利した戦争である。ただ、日本は勝利したものの、戦勝国が請求できる賠償金が取れずに、これに不満を持った民衆が日比谷焼き討ち事件を起こしたことで有名である。

 日露戦争でも7万人を超えるロシア兵が捕虜として日本へ送られてきた。捕虜とは多くの場合、拷問や銃殺にさらされる運命というイメージがある。現に、太平洋戦争後の日本人捕虜はソ連によってシベリアに移送され、奴隷的強制労働により、多くの命が失われた。
 しかし、日本は日露戦争では国内29の収容所において、ロシア兵捕虜に対して強制労働などは全くなく、むしろ医療、食事、娯楽、信仰など、あらゆる場面で捕虜を厚遇していたという。
 当時、日本は捕虜の処遇などを規定する国際法(ハーグ条約)を批准していた。このように捕虜の取扱いに相当配慮していたのは、国際的な地位向上のためであったといわれている。

 日露戦争に関しては、もうひとつ逸話がある。
 ロシア旅順要塞司令官のステッセルという将軍がいた。彼は、乃木希典率いる日本軍に降伏し、囚われの身となってしまった。旅順郊外の水師営で降伏の記者会見を行ったのだが、その際、通常なら敗軍の将は帯剣を許されておらず、非常に惨めな格好でその姿を現すものである。
 ところが、明治天皇の大御心により、乃木将軍は彼に帯剣を許すのである。そればかりか、宴席でもてなし、敵軍の奮闘を大いに称えるのである。これは、惨めな姿を会見の場で晒さぬこと、また、ステッセルの軍人としての名誉を守ること、つまり、明治天皇、そして乃木希典の思いやりの心があらわれたものといえる。まさに武士道である。
 このあとステッセルはロシアに帰国するのであるが、敗戦の責任を問われ、ロシア皇帝より銃殺刑を宣告されてしまう。これを聞いた乃木将軍はロシア皇帝に書簡を送り、ステッセルは祖国ロシアのために死力を尽くしたことを訴え、減刑を願い出たのである。それにより彼は死刑を免れ、シベリア流刑に罪を減免された。さらに、乃木将軍は、ステッセルと引き離されたステッセルの家族を不憫に思い、自分が亡くなるまでずっとその家族に仕送りをしていたという。
 しかし、ロシアは太平洋戦争終結寸前の不法侵攻に飽き足らず、いまだに日露戦争敗戦の怨恨を抱き続けているかのようだ。

 

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